温井海咲はその声を聞いた瞬間、驚いて足をくじきそうになった。
バランスを崩して、体が彼の方へ傾く。
叶野州平は彼女の体が倒れかけているのを感じ、咄嗟に彼女の腰に手を添えた。
その瞬間、彼の手の熱が彼女の肌に伝わり、昨夜の彼の容赦ない行為が脳裏に鮮明に蘇った。
温井海咲は一瞬乱れた感情を抑え、ゆっくりと顔を上げて、彼の深い瞳を見つめた。
その目には、真剣さがあり、疑念があり、まるで彼女のすべてを見透かすかのようだった。
温井海咲の心臓はドクンドクンと速くなり、彼と目を合わせ続けることができず、思わず視線を落とした。
彼が、昨夜の女性が自分だと知ったら、怒り狂うに違いない。
彼女の結末も、決して良いものではないだろう。
だが、温井海咲には諦めきれない思いがあった。
もし、叶野州平が自分だと気付いたら――彼との結婚生活を少しでも長く続けられるのではないか?
しかし、彼の視線を恐れて、言葉を絞り出した。「どうしてそんなことを聞くの?」
彼女の胸の奥で期待が膨らんでいたのは、自分でも分かっていた。
だが、叶野州平は軽く笑いながら言った。「お前にそんな度胸はないだろう」
温井海咲の手が一瞬止まり、視線を下に落とした。
叶野州平の心の中でも、それが彼女でないことを望んでいるようだった。
何しろ、二人の結婚はただの契約に過ぎない。
そして、もう数日もすれば、その契約も終わる。
突然、叶野州平は彼女の手を強く掴んだ。
温井海咲の心臓が一瞬止まり、彼の冷たい視線を感じた。
彼の視線は鋭く、彼女を厳しく見据えていた。
温井海咲は恐怖に駆られ、手を引こうとしたが、次の瞬間、彼は彼女の体を強引に全身鏡に押し付けた。
「何をしてるの?」
温井海咲は冷静さを装いながらも、震える声が彼女の恐怖と緊張を露呈していた。
「本当に、昨夜はオフィスで寝ていたのか?」
彼の漆黒の瞳を見つめると、その中に疑念が宿っているのが分かった。彼は彼女を疑っているのか?
温井海咲は突然、三年前の新婚初夜のことを思い出した。
彼女はその時、彼が自分を愛していると信じていた。
しかし、彼の手に触れようとした瞬間、彼は冷たく立ち上がり、言ったのだ。
「温井海咲、俺が君と結婚したのは、ただ祖父の遺志を果たすためだ。三年後、俺たちはそれぞれの道を歩む。それまでの間、俺に触れるな。俺の手段がどんなものか、お前は知っているだろう」
彼が彼女に触れさせなかったのは、ただ彼の心を他の誰かに捧げていたからだ。
もし、彼が彼女が触れたことを知ったら――愛する声声を裏切ったことに気づいたら――彼は間違いなく彼女を許さない。
温井海咲は目を逸らし、静かに答えた。
「......ええ、オフィスで寝ていただけです」
その瞬間、彼の手が彼女の首筋に触れ、徐々に下へ滑り、そして力を入れると、肌に桜色の痕が残った。
そして彼の手は、彼女の第三のボタンの上に止まった。
「ボタンが逆だ」
温井海咲は彼の手首を見つめ、ボタンが間違って留められていることに気づいた。
彼女は呼吸を止め、慌てて彼の手を払いのけ、ボタンを解き直しながら謝った。「すみません、礼儀作法のミスです。今後、気を付けます」
叶野州平は突然苛立ちを感じ、彼女を遠ざけた。そして冷たく言い放った。
「こんな低レベルなミスは、二度としないでくれ」
温井海咲は地面を見つめながら、心の奥が締め付けられるのを感じた。
彼は彼女にミスを許さなかった。だが、彼自身はどうなのだろうか?
叶野州平は彼女に背を向け、言った。「まだここにいるのか?会議の準備をしろ」
温井海咲はただ黙って頭を垂れていた。
「叶野州平、淡路美音が帰国したわ」
彼女が初めて彼の名前を直に呼んだ瞬間だった。
温井海咲は顔を上げ、涙を堪えながら、淡々とした口調で告げた。
「私たち、離婚しましょう」
その言葉を聞いた瞬間、叶野州平の手の血管が膨れ、彼の表情は一層険しくなった。
「温井海咲、今は仕事中だ。自分のすべきことをしろ」
そう言い捨てて、彼は無表情で部屋を出て行った。
温井海咲は彼の背中を見つめ、呼吸が苦しくなるのを感じた。
彼は、きっと認めたのだろう。
手の甲が温かくなり、見下ろすと一滴の透明な涙が落ちていた。
結局、涙をこぼしてしまったのだ。
でも彼の言う通り、彼女はまだ彼の秘書であり、仕事が残っている。
会議で使う資料が家にあるので、一度取りに戻らなければならない。
ついでに、三年前に準備しておいた......離婚届も持って行こう。
社長室。
叶野州平は革張りの椅子にもたれ、冷たい表情で眉をしかめていた。
外からノックの音がし、秘書の木村清が部屋に入ってきた。
「社長、調査の結果、温井さんは昨夜、本当にオフィスで寝ていました」
その言葉を聞いて、叶野州平の眉間の皺がさらに深まった。
「それに、淡路さんも昨夜、社長が宿泊されていたホテルに行かれ、フロントで部屋番号を確認されたことがわかりました」
その頃、温井海咲は家に戻っていた。玄関に足を踏み入れると、お義母さん
である叶野淑子の嫌味な声が飛んできた。「仕事もろくにしないで、何しに戻ってきたの?うちの家は、あんたみたいな役立たずの女を養うつもりはないんだからね。ましてや、卵も産まない鶏なんて」
温井海咲は、このような冷ややかな言葉にはもう慣れていた。
ただ、子供を作るかどうかは、彼女一人で決められることではない。
むしろ、これからは子供を作らなかったことを理由に、義母に責められることもなくなるだろう。
怪しい薬草のような漢方を飲まされることも、もうない。
温井海咲は丁寧に言った。「社長さんが会議で必要な資料を取りに戻りました」
「そんな重要な書類は、最初からきちんと準備しておくべきでしょ。わざわざ戻ってくるなんて、サボるつもりかしら?あんたが私たちに二千万円も借金してること、忘れたわけじゃないでしょうね。私の息子に一生仕えることになっても、返せるかどうか怪しいわよ。それなのに、まだ怠けるつもり?」
温井海咲は目を伏せ、胸が締め付けられるような痛みを感じた。
どうして忘れていたのだろう?
かつて、二千万円もの借金を抱えていた父を助けるために、叶野じいさんがこの話を持ちかけ、叶野州平との結婚が決まったのだということを。
だから、さっき彼に離婚の話を持ちかけた時も、彼は何の感情も見せず、ただ仕事をきちんとするように言っただけだった。
彼にとっては、結婚が終わったなら、叶野の家に借りたお金も返さなければならないのだ。
「安心してください、お義母さん。必ずお金は返します。資料を持ってすぐに戻ります。会議がもうすぐ始まるので」
そう言いながら、彼女は叶野州平の書斎に向かって歩き始めた。
「まだ許可してないのに勝手に行こうとするなんて、礼儀も知らないのか?ちょうどいい、聞きたいことがあるのよ」
「何でしょう?」
「今月、病院に行って検査はしたの?お腹に動きはあった?」
「州平も私も仕事が忙しくて、そのことに気を回す余裕がなくて......でも、時間ができたら、ちゃんと考えます」
叶野淑子の表情が一変し、怒鳴り声を上げた。
「そんな言い訳、何度聞いたと思ってるの?もしあんたがダメなら、できる女に代えるからね。すぐにでも州平と離婚しなさい!」
温井海咲の顔が一瞬白くなった。
新婚の夜、いずれはこの日が来るだろうと覚悟していたが、それでも彼の気持ちを確かめたくなった。
「それは彼の意思なんですか?」
「他に誰の意思だと思うの?」叶野淑子が問い返した。
温井海咲の顔から血の気が引いていった。
その時、キッチンから別の女性の声が響いてきた。
「お義母さん、大好きなスープができましたよ。どうぞ召し上がってください」
その声を聞いた瞬間、温井海咲の全身が玄関の前で硬直し、体の中の血液が冷たくなった。