少し間をおいてから、クラインがこう書き続けた。
「ポーションの問題を克服するというのは、つまるところ、消化することであり、手なづけることではない。これはイメージ的に理解できることである。」
「手なづけるというのは、ポーションの力を外部のツールとして扱うことである。飼いならされた獣は、どれだけ手なづけていても依然として自分とは別の存在であり、手をかまれる危険性さえある。だが消化することは、飲み込んだポーションを自分の一部とみなし、これを分解し、吸収し、融合させて、お互いに一体化することである。」
「この点について今のところ疑問はない。大事なのは『演じること』はなぜ消化に役立つかということだ。」
「今日占い師を体験してみた限りでは、2つの仮説を立てる。さらに検証する必要がある。」
「1つ目は、ポーションの名前に基づいて『演じること』は、体、心と霊の状態を変え、それらをポーションのコアに残っている頑固な意志へと少しずつ近づけることによって、共鳴を起こし、ポーションを少しずつ同化させ、少しずつ吸収していくことができる。」
「2つ目は、ポーションのコアに残っている頑固な意志は、完全なセキュリティ対策が施してあるコンピュータのようなものである。そこに侵入して、攻撃をかけ、滅ぼすにはバグ、セキュリティホール、キーを見つけなければならない。ポーションの名称にその手がかりが隠されているため、演じることによって体、心と霊を整えて『味方』に扮し、『警備兵』の目をくらませば、堂々と入ることができる。この考え方はロッセール大帝による記述と似ている。」
「いずれの仮説であっても、体、心と霊の状態は避けては通れない要因である。どうせそれらは『演じること』とポーションの力とをつなぐただ1つの橋渡しのようなものだから。」
クラインは万年筆を置いて、書いてきたものを読み返すと、中国で受けた詰め込み教育に感謝したい気持ちにさえなった。
何はともあれ、理系か工学系を選んだかどうかに関わらず、自分には基本的な論理的能力は備わっている。そうでなければ、机上の強者となることも、このように分析と仮説を行うこともできないだろう。