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章 5: 第5話

温井海咲は足を止めた。彼女の態度には夫婦間の和やかさは微塵もなく、まるで上司と部下のような距離感を感じさせた。「社長、何かご指示がありますか?」

 

叶野州平は彼女の冷たい表情をじっと見つめ、命令口調で言った。「座れ」

 

温井海咲は彼の意図が分からず、戸惑った。

 

叶野州平がゆっくりと彼女に近づいてくる。

 

彼が歩み寄るにつれて、空気が薄くなったように感じ、彼女の胸は緊張と奇妙な感覚で締めつけられた。

 

彼女が身動きせずにいると、叶野州平は彼女の手を取った。

 

彼の温かい手が彼女の手に触れた瞬間、温井海咲はまるで何かに焼かれたように手を引こうとした。しかし、彼の手は強く、逃れる隙も与えられず、彼女はそのまま引き寄せられた。叶野州平は眉を寄せ、厳しい口調で尋ねた。「手が怪我しているのに気づかなかったのか?」

 

その思いがけない優しさに、温井海咲は驚いた。「私は......大丈夫です」

 

「手には水ぶくれができている」叶野州平は続けて尋ねた。「なぜ言わなかったんだ?」

 

彼の大きな手が今、彼女の傷を確認していた。

 

彼女は長年、何度も彼の手を取ろうと望んだ。温もりが欲しかった。彼と共に進む道を探していた。

 

しかし、そんな機会は一度もなかった。

 

今、彼女がすべてを諦めようとした瞬間に、彼は再び彼女に微かな温もりを与えた。

 

「たいしたことありません。数日もすれば治るでしょう」温井海咲は淡々と答えた。

 

「火傷の薬を持って来させる」

 

その言葉を聞いて、温井海咲の目元が熱くなった。長年の忍耐が、ようやく少しだけ報われたように感じた。

 

しかし、彼女はすぐに冷静さを取り戻した。彼は彼女を愛しているわけではない。

 

叶野州平は火傷の薬を取り、彼女の傷口に丁寧に塗り始めた。彼が彼女の前に膝をついて慎重に手当てをする姿を見て、温井海咲は、もしかすると彼に愛される可能性があるのかもしれないと一瞬思った。

 

まるで小さな怪我をするだけで、彼の注意を引けるかのように。

 

彼女は馬鹿げた考えさえ浮かんだ。彼のそばで7年も彼を支え続け、毎日献身的に彼の世話をしてきたが、たったひとつの小さな傷の方が彼の関心を引けるのではないかと。

 

そんな風に感じる自分に、一滴の涙が頬を伝い、叶野州平の手の甲に落ちた。

 

彼は目を上げ、温井海咲の潤んだ瞳を見て、驚いた。彼女が自分の前で感情を露わにするのは初めてのことだった。

 

「どうして泣いているんだ?痛かったのか?」

 

温井海咲は自分でも感情が揺れすぎて、いつもの自分らしくないことに気づいた。「痛くはありません。ただ、目が少し不快なだけです。社長、次は気をつけます」

 

彼女が何度も繰り返す礼儀正しい言葉に、叶野州平は少しうんざりしていた。彼は眉をひそめて言った。「ここは家だ。会社じゃないんだから、そんなに気を張る必要はない。家では、俺の名前を呼んでもいいんだ」

 

しかし、この7年間、温井海咲はずっとこの調子で過ごしてきた。

 

会社では、彼女は優秀な秘書として振る舞い、家では「叶野の夫」としての名ばかりの立場を維持しつつも、秘書としての仕事をこなしてきた。

 

温井海咲は彼の顔を見上げた。長年愛し続けてきたその顔に、彼女は何度も心が疲れた。返ってこない感情は、いつか限界を迎える。彼女はためらいながらも、ついに言葉を口にした。「叶野州平、私たち、いつ離婚を......」

 

しかし、彼は突然彼女を抱きしめた。

 

その瞬間、温井海咲の体は硬直し、彼の肩に頭をもたれさせながら、何も言えなくなった。

 

叶野州平は眉をひそめ、静かに言った。「今日は疲れた。何か話すなら、明日にしてくれ」

 

温井海咲はそれ以上、離婚の話をすることはできなかった。

 

ベッドに横たわると、彼は以前とは何かが違うように感じられた。

 

彼の体が彼女にぴったりと寄り添い、その熱が彼女に伝わってきた。

 

彼の手が彼女の腰に回され、彼女を包むのは、冷たくも力強い松の香り。それが彼女に微かな安心感を与えた。

 

彼の大きな手が彼女の腹部に触れ、彼女の体は反射的に縮こまった。そして彼の温かい息が耳元に届いた。「くすぐったいか?」

 

温井海咲は目を伏せ、静かに答えた。「まだ慣れていません」

 

それを聞くと、叶野州平はさらに積極的になり、両腕で彼女をしっかりと抱きしめた。「なら、ゆっくり慣れればいい。いつか必ず慣れるさ」

 

彼女は彼の胸に寄り添い、彼の熱が彼女の顔を赤らめた。

 

彼女はふと考えた。彼らの結婚には、まだ可能性が残されているのだろうか?彼女も、違う立場での関係を望んでいた。

 

「州平......もしできるなら、私たち......」

 

その時、彼の電話が鳴った。

 

彼の注意は一瞬で電話に向けられた。

 

温井海咲が口にしようとしていた言葉は、後ろへと飲み込まれた。妻としての立場で......

 

彼女はもう秘書として彼の前にいることを望んでいなかった。

 

だがその希望も束の間のものだった。彼が電話を取ると、彼女は画面に映る名前を見た。「淡路美音」。

 

それを見た瞬間、彼女は現実に引き戻された。

 

叶野州平の表情は冷静さを取り戻し、彼は彼女を放し、ベッドから起き上がった。彼は彼女の言葉には何の関心も示さなかった。

 

「もしもし」

 

彼は冷たい顔をしたままベッドを出て、部屋を出て行き、淡路美音との電話に出た。

 

温井海咲の心は沈み、唇に苦笑が浮かんだ。

 

温井海咲、何を期待していたんだ?

 

彼の心は淡路美音にある。お前には、決して愛は向けられない。

 

それは3年前に結婚した時、すでに彼から言われていたことじゃないか。

 

温井海咲は涙を浮かべた。なぜか、胸が痛み、目の奥がますます熱くなる。

 

彼女は目を閉じた。もう彼のために涙を流すのはやめよう。

 

彼は知らないが、彼の心に他の女性がいると知って以来、彼女はひそかに泣いていた。しかし、それを彼に見せたことは一度もない。

 

彼女は自分の立場をよく理解していた。彼にとって、ただの秘書でしかないということを。

 

叶野州平が電話を切って戻ってくると、温井海咲がまだ起きていることに気づき、一言声をかけた。「会社に用事があるから戻る。早く休むんだ」

 

温井海咲は彼を見ず、自分の脆さを見せまいと努めていた。「分かりました。行ってください。明日、私は定刻通り出社します」

 

「うん」

 

叶野州平は短く返事をし、コートを手にして部屋を出て行った。

 

車のエンジン音が遠ざかるたびに、温井海咲の心はまるで裂けていくようだった。

 

その夜、温井海咲はほとんど眠れなかった。

 

翌朝、彼女は出社のため早く家を出た。

 

オフィスにはまだ数人しかおらず、温井海咲はいつも通り、叶野州平の仕事をきちんと整理し、全てを完璧にこなした。

 

しかし、その日叶野州平は会社に姿を現さなかった。

 

温井海咲は彼に何度も電話をかけたが、すべて電源が切られていた。

 

焦りが募る中、森有紀が不安そうに声をかけた。「温井さん、今日は社長がいらっしゃらないですし、どこにいらっしゃるのかも分かりません。工事現場の巡視は、温井さんにお願いするしかありません」

 

温井海咲は叶野州平の秘書として、会社の多くのプロジェクトに関わっていた。このプロジェクトについても彼女はよく理解していた。

 

最後の電話も繋がらなかったことに少し落胆しつつ、彼を探すのを諦めた。

 

その瞬間、彼女は昨夜のことを思い出した。あのとき、彼が電話を受けたのは、淡路美音からだった。

 

会社に来ず、一晩帰らなかった。恐らく、彼女と会っていたのだろう。

 

温井海咲は胸の奥に湧き上がる苦しさを抑え、こう答えた。「社長さんを待っても仕方ありません。私たちで先に行きましょう」

 

外は強烈な日差しで、気温は非常に高かった。温井海咲は建設中の現場に到着した。

 

まだ骨組みだけのビルは形になっておらず、あたりは乱雑だった。

 

現場は埃と鋼材にまみれ、重機の騒音が響き渡っていた。温井海咲は何度も訪れたことがあり、現場の流れにも慣れていたため、迅速に手続きを進めた。

 

だがその時、突然誰かが叫んだ。「危ない!」

 

温井海咲が上を見上げると、一枚のガラスが彼女の頭上に落ちてきた——。


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